江戸時代、庶民の間で広く流通した貨幣を寛永通宝といいます。

江戸幕府は1601年(慶長6年)に金貨、銀貨を貨幣とする制度を整えました。

しかし、銭貨については昔から使用されていた渡来銭を用いており、

これを日本独自の銭貨とするべく水戸の豪商である佐藤新助が試作して、

幕府に日本独自の銭貨を鋳造することを提案しましたが、

幕府はこれを許可しませんでした。

その後どのように寛永通宝が日本の銭貨として江戸時代に流通したのかを探っていきましょう。

寛永通宝の誕生

寛永通宝

最初は佐藤新助の提案を不採用とした幕府ですが、

1696年(寛永13年)になってから銅の生産量が増えたため、

江戸浅草と江戸芝、近郊坂本の3つの場所に銭座を設立し「寛永通宝」の生産を始めました。

1659年(万治2年)には全国15か所の地域で生産されたことと品質の良さが民衆にうけ、

広く流通したと共に渡来銭は姿を消してしまいました。

特徴

寛永通宝の特徴は貨幣に記載されている字体のバリエーションが豊かなのが特徴です。

初期に造られた字体は“永”の字が“二”と“水”に分かれているように見える為、

“二水永”と呼ばれており、裏には寛永3年を意味するだろう“三”の字が浮き彫りされております。

種類

種類は上記でご紹介した、“二水永”の他に数種類あります。

1636年(寛永13年)に発行された通称“御蔵銭”は書体が多くの種類があり、
“志津磨百手”とも呼ばれています。

翌年の1636年(寛永14年)に仙台で発行された“濶字手背大濶縁”は、
他の寛永通宝とは違い裏の縁が広いのが特徴的です。

廃止

江戸時代の庶民と馴染みの深い寛永通宝は230年という長い間使用されていました。

その間に鋳造された貨幣は300~400億枚と言われており、

数多く流通していたことを再確認します。

これほどまでに流通したのですが、明治30年の9月末に鉄銭の使用が廃止されました。

しかし、正式に通貨でなくなったのは昭和に入ってからで、

円未満の通貨が廃止されたときに通貨として使用できなくなりました。

現代における価値

発行数が膨大の為、現代にも100億枚近く残っていると言われております。

数が多いので評価もピンからキリですが、少ないモノでいうと200万円以上の価値に相当するようです。